そのために禅が大変素晴らしい長所を持っていながら、その長所が一般によく知られていない様です。
禅の修行者は「自分に対しては厳しいが、他人に対する優しさが欠けている」と言われています。
真の禅の修行者は、自分の修業のことだけでなく他人の利益のことも考えるべきです。
「大道禅体験集」という小冊子を発行することにしたのは、禅の良さを一人でも多くの人と分かち合うためです。
そしてこの体験集によって、日常生活に応用するのが難しいと言われる禅を、具体的にあなたの生活の中にどの様に役立てたらよいか、そのヒントとして欲しいのです。
掲載の体験談は大道学舎会員の生(なま)の体験です。このような小冊子を発行することは禅の世界では画期的な試みなのです。
この体験集によって少しでも禅に興味を持って下されば大変有難く存じます。
大道学舎 学頭 村瀬大翼
坐禅の集中力を仕事に生かす
自分は元来集中力に欠け、何かをやっている時に他のことを考えたり、途中で違うことが入ってきて、そのことをやり始めたら、前やっていたことを忘れてしまうことが度々ありました。
今日中に完成させてしまうとか、何かの結論をすぐ出さなければならないことがますます多くなってきていますが、坐禅をやりはじめてから、各々の問題にだんだん集中出来る様になってきたし、冷静な判断が下せるようになったと思う。
まだまだ到らぬことが多い。坐禅中最初に眠くなることがその典型である。集中力が出来てきたと言っていながらである。しかし、段々回を重ねることによって自己管理も大分良くなってきたと思う。30分間、頭の中はどうであれ、なんとか坐わることに集中出来る様になったのだから。
仕事の上では、頭の中を坐禅と同じ様に心を落ちつかせ、直面している問題に集中する様に努力している。.余り他のことを考えすぎると問題の本質を見誤ることもあるので、そのことだけに集中する様に心がけている。そうすると、意外と簡単に解決策や、冷静な判断が出来る。即今当処三昧(*)も自分流にこんな中にあるのではないかと考えている。
(I助 会社員)
*即今当処三昧(そっこんとうしょざんまい):ただ今、ここで、なすべきことを一生懸命に専念すること。
心にゆとり、そして悟りへ
よく坐禅の最中によけいなことを考えるなといわれるが、わたしはよくその日の出来事や心配事を考えます。それは一日の反省であり、何か心に引っかかっているものを見直す良い機会になっています。心配事がある時に頭の中を空(から)にしろよと言っても無理です。考えない様にすればする程、色々な出来事が頭の中をめぐります。わたしは、逆らわずに、その日の出来事や心配事をゆっくり心の中でみつめる様にしています。自分の悪かったところはないか、相手は、そして相手の良いところは何か、見つめ直すのです。そうすれば、おのずと自分の悩みは整理され、どうすれば良いか解決策が見えてきます。反省心が湧き、悪い所がわかり、それを変えていけばおのずと罪業(*1)は消えていくものだと信じています。
そして、解決策を見つければ、精神は安定し、知足(*2)は充実してくるという訳です。いつもこんなに順調に進む訳はありませんが、その回数を重ねれば重ねる程、その余裕は生まれてきます。ゆとりとか悟りも、そんな中から一つ一つ見つけていけるものと信じています。
(F夫 会社員)
*1)罪業:罪つくりな行い
*2)知足:足(た)るを知る
罪造りな人間にありがたい御活号
自分はつい大坐禅(*1)を怠けたり、人を憎んだり、うそを付いたり、妬(ねた)んだり仕事をいいかげんにやったりすることがある。禅の修行者として恥ずかしいことである。この様な罪を犯した時、御活号を唱えることにしている。
白隠禅師(*2)の「一坐(*3)の功をなす人は積し無量の罪滅ぶ……」と言われているからである。
自分に都合のよい理屈(りくつ)かもしれないが、私みたいな愚かな怠け者は白隠禅師の言われることを頼りにする以外手がないのである。御活号をお唱えして、罪が滅ぶかどうか、私には分からない。ただ私の様な罪造りな人間にもできるものがあるのが有難いのである。御活号以外、私としては、やるものがないからやるのである。
そういう意味で白隠禅師よ、よくぞ言って呉(く)れたとおもうのである。
(D太 団体役員)
*1)大坐禅:当会独特の呼び名で、手足を組んでやる一般的な坐禅(身でやる坐禅)と御活号を唱える(口でやる坐禅)を合わせて大坐禅としている。以下の文中特記なき坐禅はこの大坐禅のことです。
*2)白隠:江戸時代の日本で活躍した僧侶。臨済禅の「中興の祖」と言われる。
*3)一坐の功:1回の坐禅で得られる底力(そこぢから)。
大接心(泊り込み坐禅会)以来の禁煙生活
坐禅に興味を持ち、初めて参加した大接心会。緊張の連続の初日も消灯の時間になり布団に入りました。ああ、やれやれ終わったか、とホッとしてあれこれ今日一日のことを振り返り、さて寝ようかと思った時、何やら私の隣でブルブルと震えている気配。よく見るとやっぱり布団が小刻みに震えている。具合でも悪いのかと思って声を掛けたところ、彼(35才ぐらいのサラリーマン)は私にこう言いました。「私は毎日酒を飲まないと居られない状態になってしまった。酒を断ち切りたくて今回の大接心会に参加した。今日一日飲まなかったので身体が震えている。ご心配頂き有難いがそっとしておいてほしい」と。私は愕然としました。こんなにも苦しんでいる。自分と闘っている人が今、まさに私の隣で横になっている。よーし、私も何かやろう。そうだ禁煙!私は一日40本近くタバコを吸っておりましたが、この時を契機にピタリと止めました。付き合いの多い酒の席、開放的な旅行、等々喫煙の誘惑に何度もかられましたが大接心会の初日の夜の彼のことを思い出すと、とても吸う気になれません。御活号が彼になり代わり接心の場で私に注意を与えてくださったことと信じ、この先も禁煙を続けて行こうと固く心に誓っております。
三指礼
(C雄 会社役員)
*御活号(ごかつごう):「南無不動活力明王」の聖語のこと。この聖語をお唱えする事は「口でやる坐禅」です。
人生の山(悩み)を超える楽しさ
確かに坐禅を続ける様になってから精神的に安定してきました。まだまだ自分自身コントロールし切れず、悩みも一向に減りませんが、それは人間である以上、他人とのかかわりで生活しているのですから、次から次と新しい問題が出てきて当り前だと理解出来る様になりました。何か問題が起きた時、なぜ自分だけがと考えることが多かったのですが、それは考え方次第です。以前は気にも止めなかった問題が、別の問題を解決したら気になりはじめたのかも知れません。今迄もその同じ問題があったのに自分の意識の中に入ってこなかったこともあるでしょう。
たとえその問題が新たに起きた問題だとしても、それは自分が成長する為の越えなければならない山(悩み、問題)だと理解出来る様になれば、それはもう苦悩ではなくなり、山を越える楽しみにさえつながってきます。そしてその山を越える苦しさが大きければ大きい程、山を越えた時の楽しさはもっと大きな大きなものになるでしょう。
現実はまだまだそんな風に悟りきれずに、悩み苦しんでいる時が多いのですが、大きな問題にぶつかった時、一度離れて、出来るだけ山をそんな風に見たいと思っています。
三指礼
(B夫 会社員)
御活号(ごかつごう)の効用で病状回復
毎晩残業続きの11月某日、この日も帰宅してから遅い夕食をとり、風呂に入り12時すぎに布団に入りましたが急に気分が悪くなり下腹部に不快感を覚えたため急いでトイレに行きました。便座に座るやいなや多量の出血が始まり猛烈に気分が悪くなり、たちまち顔から血の気が失せ冷たくなって行くのが分かりました。“死”が頭をよぎり正直なところもうこのまま駄目かと思いました。
まったく立ち上がれない状態となり壁を叩いて家内を呼び、便所から引っ張り出してもらう程でした。すぐ車で救急病院へ行き、そのまま即時入院。点滴を受け検査が繰り返し行われました。結果、医師の診断は急性出血性大腸炎で大腸に沢山ポリープが出来ている由。ベットに横たわり仕事のこと、家庭のこと、身体のこと、などあれこれ思うと心配で不安な気持ちでした。こんな時、坐禅に興味を持って初めて参加した5月の大接心会(泊り込み坐禅会)で村瀬学頭から伺った「南無不動活力明王・御活号をお唱えすると活力が湧いてきます。1日30回欠かさず唱えなさい。必ず、幸福になりますョ。嘘だと思うなら試しにやってご覧なさい。」との言葉を思いだしました。早速、家内に学頑から頂いた「南無不動活力明王」の短冊を持って来てもらい、ベットの傍らに置き御活号の唱和に励みました。お陰様で気分も落ち着き病状もメキメキと快方に向い入院一週間経つ頃には退院の許可も出て、喜びの内に病院を後にしました。「南無不動活力明王」御活号の効用を身をもって体験し、ご指導を賜りました村瀬学頭に心から感謝する次第です。ありがとうございました。
三指礼
(A男 会社役員)
*1)御活号:「南無不動活力明王」という聖語で、大道学舎では、御活号を唱えることを「口でする坐禅」と位置付け、「身でやる坐禅(手足を組む一般的坐禅)」と合せて大坐禅としている。
*2)村瀬学頭:大道学舎の創立者である村瀬大翼師のこと。学頭は役職名。